模型車両の紹介:ひかり模型製のキットを使用して製作したEF58の紹介(1)

今回紹介する車両は以前発売されていたひかり模型製のキットを使用して製作したEF58です。この車両は80年代後半に製作した後、一部が破損し走行不能となっていた車両を最近レストアした作品ですが、今回はその第1回目として下回りのレストアの内容について紹介させていただきたいと思います。

EF58は言わずと知れた戦後製造された日本を代表する電気機関車の一つですが、この模型を最初に製作した80年代、EF58は東北・上越方面の夜行寝台急行列車を始めとした客車列車、東海道方面の荷物列車の牽引に活躍していました。そして70年代終わりに東北本線からEF57が引退した後は首都圏の中央線を除く直流電化区間のブルートレイン以外の客車列車や荷物列車ほぼ全ての牽引を担っていました。このため当時首都圏で見る機会は多く、首都圏を走る客車列車を模型で再現しようとするとどうしても欲しくなる形式で、この模型もそのような経緯で製作したものです。

1970年代、東京機関区には多数のEF58が配置されており、その姿は山手線の車窓からも見ることができました.
夜行寝台急行列車を牽引して上野に向かうEF58. 東十条駅付近の陸橋より撮影.

このキットは80年代に発売されていた製品で、車体キットと台車キットが分割されて発売されていました。車体キットの箱には¥9,550というラベルが貼ってあります。動力装置は珊瑚模型製のF級電機用が指定されていたと思いますが、この作品は当時発売されていた歌川模型製のUギヤーという軸間距離が可変の3軸タイプのインサイドギアーと縦型モーターを使用しています。製作したのは今から40年近く前の1980年代中頃と記憶していますが、台車まわりが破損して走行不能となっていました。その後塗装を剥がして破損した部品を外した後、再組み立てを計画していたのですが、そのままの状態で最近まで放置されていました。いわゆる「旧型電機』は主台車前方に台枠が伸びており、先台車を装備しているため模型としても台車周りの構造が複雑です。またEF58は主台車枠下方の線路に近い部分に主台車枠の全長にわたりブレーキ機構が取り付けられているため線路の上に乗せる際にその部分に触れやすく、それらが破損したことが修復が必要になった主な原因でした(ちなみにEF58,EF15以前の電気機関車のブレーキロッドは主台車枠の上部に取り付けられています)。今回はその経験を活かし、ある程度強度にも考慮して再組立を行いましたので今回その過程を紹介させていただきます。

修復前の状態. 破損したブレーキシューは取り外され, 写真では分かりませんが 台車枠に半田付けされた一部の部材が外れかかっています.

EF58の車体は晩年、いろいろなタイプ(外観)の車両がありましたが、レストアにあたり、まずどのようなタイプで製作するかを検討しました。前述のように最初にこの模型を製作したときはまだEF58は現役で、私にとってのイメージはは東北・高崎線方面で夜行寝台急行列車を牽引する姿ですが、今回は晩年の「くたびれた」旧型客車を牽引する姿よりもう少し遡って東海道線の夜行寝台急行を牽引していた姿を再現する(できる)形態で製作したいと思い、東海道線で運用されていたタイプとしてSGを装備して(側面の電気暖房動作時警告灯がなく)前面は大型のつらら切りがなく、汽笛カバーやスノウプラウが装着されていない姿にすることとしました。なお、特に特定ナンバーにこだわっての製作はしておりません。
修復にあたってはまず、主台車枠周りを修復し、走行可能の状態にします。この製品の主台車枠とブレーキシューは真鍮ドロップ製ですが、ブレーキ機構はキットのは含まれておりませんでしたので修復前もも自作の部品を取り付けていました。EF58はブレーキが片押し式であり、それまでの機種に比較して構造は比較的単純で、主台車枠前方(運転室側)にあるブレーキシリンダーから3箇所のブレーキシューにロッドを繋ぎ、そのロッドで各動輪のブレーキシューを作動させています(動作させる際の力のバランスやブレーキシューの摩耗等を考慮してロッドは一本ではなくブレーキシリンダと各ブレーキシューがブレーキテコを介して複数のロッドにより連結されています)。これらの機構は主台車枠の下部、ほぼ全長にわたり取り付けられています。

EF58のブレーキ装置. 主台車枠の先端(運転室より)のブレーキシリンダーから伸びるブレーキロッドで3箇所のブレーキシューを動作させるという蒸気機関車に似た比較的単純な構造です(鉄道博物館で撮影).
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作品の台車周りの破損の状態を見ると、破損の原因は台車周りの部品の取り付け強度が全体的に不足していたためと考えられました。このキットの主台車枠は真鍮ドロップ製ですが、この主台車枠に取り付ける真鍮ドロップ製のブレーキシューや台車枠の左右を結ぶ梁も比較的熱容量の大きな部品です。そのためこれらの部品を主台車枠にハンダ付けする際、前に取り付けられている部材のハンダの緩みによるずれや脱落を防ごうとすると、後からハンダ付けする部分を十分に加熱することができず、結果十分な量のハンダを各部材の接合部に流すことができなかったことで強度不足となり、それが破損の原因になったと考えられます。
そこでこの対策として、今回はブレーキシューを主台車枠に取り付ける際の固定方法をハンダのみの接合ではなく、真鍮線の植え込みも併用して主台車枠にハンダ付けし、その近傍に他の部材を取り付ける際、万一ブレーキシューを取り付けた半田が緩んでも、主台車枠に取り付けたブレーキシューの位置がずれないような対策を施しました。この対応により、ブレーキシューへの部品の取り付けや主台車枠に左右を結ぶ梁を取り付ける際、万一ハンダが溶解気味になったとしてもブレーキシューのズレが防止できるため、その近傍に部材を固定する際、固定部を十分に加熱してハンダをを流すことができるようになり各部の強度の確保が可能となりました。ブレーキシューには1個当たり2本の真鍮線をを埋め込んで回転方向のずれも防止してあります。台車枠へのブレーキシューの取り付けが終了し、車輪とのショートがないことを確認したら、台車枠の左右を結ぶための部材を取り付けますが、この部材は厚さ0.8㎜、幅6㎜の帯板を使用しました。この部材は台車枠の感覚を正確に保つため台車枠とは「イモ付け」で取り付けてあります。強度的には少し不安ではありましたが、外からは見えない部分ですのでたっぷり半田を流すことができますので半田のみで強度を確保することとしました。万一工作の途中で接合部の強度に不安があれば対策を考えることとしましたが、完成までそのようなことはありませんでした。また、修復前は片方の台車枠には台車枠の幅と同じ長さの梁を取り付けて台車枠の幅を決めていたのですが、部材の長さを短くすることにより取り扱い時に接合部にかかるモーメントを減らすため、梁を3体構造とするというという設計上の対策も行なってあります。

主台車枠に部材を取り付けたところです. ブレーキシューは1個あたり2本の真鍮線を埋め込み,はんだ付けし, 両端の部材はイモ付けで固定しました.
ブレーキ機構を取り付ける前の台車枠です. 車体中央部側の部材は今まで片方に幅を規定する長さの部材を取り付けていましたが, 取り扱い時の破損を防止するため今回は3体構造としてあります.

取り付けが終了したら台車枠を枠上に組み上げ、ブレーキシューの下端にブレーキてこ取り付け用のブラケットを取付けます。前述のようにこの部分は運転時に触ってしまうことが多く、最初の組み立て時にはブレーキシューとブレーキテコがこの部分がイモ付けであったため強度不足による部品の外れが発生したため、この部分はブラケットによる補強を行いました。このブラケットの形状は下の写真の形状のもので、2×2㎜のアングルより作成し、下面をブレーキシュー下端に合わせて取り付けます。この際、台車枠を箱上に組み当ててハンダ付けを行うと部材の保持が容易となり、ブレーキシューに植え込んだピンの効果と相まって充分な量のハンダで固定することができました。

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鉄道趣味を50年続けて思うこと(4):鉄道と音楽

前回のデジタル制御に関する記事の中で、映像に挿入される音楽について少し触れましたが、今回は映像に挿入される音楽以外も含め、鉄道と音楽について感ずることを記載してみたいと思います。とは言っても私は根っからの『理系人間』であり、音楽(音楽史)等を学校以外で学んだことはほとんどありません。ただ、子供の頃から家の中には音楽が流れていることが多かったため、子供の頃から比較的音楽は身近な存在であり、学生時代から音楽はよく聴いていました。当時から音楽のジャンルは問わず、なんでも聴いていたように思いますが、最近は歳のせいかクラシック音楽を聴く機会が増えたような気がします。
最近日本では鉄道開通150年が話題となりましたが、クラシック音楽の本場?である欧州大陸のドイツに鉄道が開通したのが1835年ですのでもうすぐ開通190年となります。私が学生時代の1985年がドイツの鉄道150年で、その時現地では保存されている歴代車両(レプリカ含む)のパレードが行われ、日本でも結構話題になりました。日本でも鉄道150年のイベントは各所で行われましたが、日本ではそのような保存車による大きなイベントができるような環境は全くなく、少し残念に感じたものです。それはさておき、ドイツで鉄道開通した1935年、流石にバッハやベートーベンはいませんでしたがシューマン、ブラームス、リスト等の作曲家の生きた時代には鉄道は確実にあったことになります。このように考えると一口にクラシック音楽と言ってもそれが制作された時代は長期にわたっており、現在我々が親しんでいる楽曲の中にも鉄道開通後に創作されたものが多くあるということがわかります。Wikipediaによればシューマン(ロベルト)の活動期間は〜1856年、ブラームスは〜1897年、リストは〜1886年である一方、ドイツでは1855年には鉄道営業キロが8,000kmに達していたようですので、この時代の作曲家と鉄道の接点は確実にあり、彼らは演奏旅行等で鉄道も利用したのではないかと思われます。下の写真は1863年から1871年にかけて製造されたthe Bavarian State RailwaysのClass B VIと1880年から1895年頃の客貨車のMärklin製のモデル(337975+#43985)ですが、彼らもこのような列車に乗車したり、眺めていたのでしょうか。ちなみにMärklin社が鉄道模型を最初に製造したのは1891年、Oゲージモデルの製造が1895年とのことですので、ブラームスの活動期間の最後の頃になるようです。

the Bavarian State RailwaysのClass B VIが牽引する1890年ごろの客車. 機関車はC型機のように見えますが先頭の車輪は従輪で、実はB型機です.

ただ、私の知る限りこの時代の音楽の中に鉄道がモチーフになったと思われるものはありません。1941年生まれで鉄道好きであったと言われるドボルザークにも鉄道をテーマにした作品は無いと思われます。、当時。鉄道の出現と普及は人々の生活に大きな影響を与えたと思われますが、鉄道は創作のテーマにはならなかったようです。クラシックのジャンルで鉄道をモチーフとした作品として有名な楽曲としてはフランスの作曲家アルヂュール・オネゲルが作品した交響詩、”Pacific231” がありますが、この楽曲は1923年の作品です。当時鉄道はかなり普及している時代で、日本ではオハ31の前身である木造車体のナハ22000が製造されていた時代です。これは私の全くの想像ですが、上記の作曲家に対してオネゲルは1912年生まれですので、子供の頃から鉄道に親しんで育ったと考えられます。今でも大人の鉄道マニアは子供の頃に鉄道模型で遊んでいた方が多いと聞きます。最近よく話題になるDigital Nativeではありませんが、オネゲルはそれに準えてうとRailway Nativeの世代です。鉄道をテーマとしたクラシック音楽の出現はRailway Nativeの時代まで待たなければならなかったのでしょうか。とは言ってもその後のクラシック音楽で鉄道を連想させるものは私の知る限りあまりありません。蒸機のドラフト音やレールジョイントの単調で連続的なリズムはクラシック音楽のテーマとしては単調すぎてはそこからの展開がしにくいのでしょうか。
一方、JAZZの世界では鉄道が出てくる楽曲は多数あり、実際の列車名(愛称)を題名としたチャタヌガ・チュー・チュー(Chattanooga Choo Choo)や実際の鉄道会社名がそのまま題名となったアッチソン・トピカ・サンタフェ(Atchison, Topeka and Santa Fe)等があります。これらはいずれも映画に使用されたもので、歌詞の中にも鉄道の具体的な描写が出てきますし、リズムや音階(メロディー)も蒸気機関車を連想させます。当時の鉄道駅は人々の生活の舞台の中心であり、また遠い地への憧れを象徴するものとして映画との親和性は高かったのかもわかりません。また米国の機関車の汽笛にはどこか哀愁を帯びた雰囲気があり、音楽に取り入れやすかったのかもわかりません。一方、映画とは直接関係のないJAZZのスタンダードナンバー、”A列車で行こう” はNYの地下鉄がテーマの楽曲です(”A” TrainはNY地下鉄のA系統という意味だそうです)が、イントロ部分でなんとなく蒸気機関車の汽笛を連想させるようなメロディが出てくるような気がします。また、鉄道を舞台とした映画の音楽としては ”オリエント急行殺人事件” の映画音楽があります。私が鉄道に興味を持った以降も2回映画化されており、1974年に製作されたSidney Lumet監督の作品と2017年に製作されたSir Kenneth Branagh監督の作品があります。この2作品のテーマ音楽と言えるものを聴き比べてみると、前者がワゴンリ客車の優雅さとその中で起こる事件の緊迫感を表現した(走る列車をイメージしたものではない)音楽であるのに対し、後者は疾走する列車をイメージした音楽となっています。どちらの映画も流石に原作に対して大きく異なる脚色はされていませんが、同じオリエント急行を表現した音楽として映像と共にこの音楽表現の差を楽しむのも面白いかもわかりません。日本でも鉄道をテーマにした作品は多くあり、鉄道をテーマとした映画も多数ありますが、いずれも邦楽です。ただ、鉄道が発する音をモチーフにしたメロディ(リズム)は童謡以外にはあまり思い浮かびません。日本では鉄道の情景はほとんど歌詞の中に登場するようです。ただ、国鉄のCMソングで山口百恵さんが歌った故・谷村新司さん作詞作曲の国鉄のキャンペーンソング、”いい日旅立ち” の歌詞には鉄道に関するワードは皆無ですし、メロディーも鉄道をイメージさせるものではありません。私の世代ではこの歌を聞くと当時の国鉄のCMが思い浮かびますが、それを知らない世代の人はこの歌をどのようなイメージで聞いているのでしょうか。また今でも時々話題になる狩人の歌った”あずさ2号” も題名以外に鉄道に関するワードは出てきません。あくまでも主題は旅であり、舞台を当時旅行先として若者に人気のあった信州に設定したことから付けられた題名のような気がします。そのような中で、以下に鉄道の情景を歌った邦楽の中で、私が印象に残っている歌詞のついた曲を数曲あげてみたいと思います。
・石川さゆりさんが歌った”津軽海峡冬景色”の冒頭、上野発の夜行列車あ降りた時から・・という下りからは青函連絡船廃止前の青森駅から青森桟橋に至る情景を彷彿とさせます。しかし実際は列車が到着するとホームから桟橋に向かう通路は20分後に出港する連絡船の自由席の良い席(場所)を確保しようと小走りで移動するする乗客でごった返し、海鳴りを聞く暇はなかったような気がします。ただ、そのような状況を実体験している者でも歌詞を聞くと海鳴りがする中黙々と桟橋に向かっていく乗客の姿が目の前に浮かんできます。作詞は阿久悠さんですが、曲のイメージに合わせた言葉の選び方に、一流の作詞家さんの素晴らしさを感じます。余談ですが、この歌がヒットした後、銀座にある某有名模型店に石川さゆりさんがいたという話を何人かの知人から聞きましたが、真偽のほどは不明です。


・以前も紹介したと思いますが、矢野顕子さんが歌っている”Night Train Home”という歌は東北本線の583系寝台特急の中の情景が歌われています。作詞は鉄道ファンで有名なくるりの岸田繁さんと矢野顕子さんの共作です。当時高校生の矢野顕子さんは青森の実家から単身状況し東京で一人暮らしをしていた(阿部譲治さんの家に下宿していた?)ようで、その時に利用した寝台特急の体験と岸田繁さんのマニアックな知識が歌詞に織り込まれています。歌詞の中ではDT32台車、MT54主電動機、C2000コンプレッサが歌われると共に、黒磯のデッドセクションで一度機器が停止した後に交流区間に入り、交流関係の機器が動作し始める音(整流器からのノイズ)の情景、朝、車端にある洗面所とトイレが大混雑になる様子等が描かれます。東北方面の夜行寝台は私も鉄道撮影旅行等でよく利用しましたが、この歌を聞くと当時の列車内の情景が目に浮かびます。この歌は矢野顕子さんのピアノによる弾き語りバージョンと故・レイハラカミ氏がバックを務めたバージョンがありますが後者の電子音楽は疾走する寝台特急電車(客車のイメージではない)を彷彿とさせるものです。また、冒頭の歌詞 ”小窓の外 終わる世界に雪が降ってくる 大人のようにカーテンの中 夢を広げてる” というフレーズも、東北出身で寝台車を利用したことがある方にはよくわかるイメージなのではないでしょうか。私はCDがリリースされる前にコンサートでこの曲を聞きましたが、聞いた時には結構驚いた記憶があります。


・ もう一つ、鉄道に関わる情景を描いた表現が印象的な歌として、さだまさしさんが作詞・作曲して歌った ”檸檬” という歌があります。この歌は梶井基次郎氏の小説「檸檬」をモチーフにしたもので、この歌詞の中には御茶ノ水駅横の聖橋からレモンを神田川に投げるシーンが描かれるのですが、その歌詞 “快速電車の赤い色がそれ(れもん)を噛み砕く”という歌詞と “各駅停車の檸檬色がそれとすれ違う” という歌詞が印象的です。聖橋は私もよく通り、ある意味見慣れた風景で、橋の上から御茶ノ水駅を発着する列車の写真も撮ったことがありますが、上記の ”津軽海峡冬景色” を含め、何気ない日常の風景からこのような言葉を生み出すことができるアーティストの才能は、理系の私には、ただただ尊敬あるのみです。

御茶ノ水橋の上から見た聖橋と中央線快速電車


・ 最後に森山良子さんが歌った “中央線あたり” という曲を紹介したいと思います。この曲は松本隆さんが作詞したいわば70年代の青春ソング(作曲は森田公一さん)で、テーマは前述の「あずさ2号」と似たものなのですが、歌詞の中に新宿から中央線で松本方面に向かう列車から見た中央線国電区間の情景が描かれています。中央線沿線に住む私にとってはある意味見慣れていた風景なのですが、改めて歌の歌詞として聞くと当時の風景が頭の中に蘇ります。また、この曲の最後には実物の列車の音が挿入されているのですが、多分実際の101系の走行音と思われ、上記のMT54主電動機とは異なるMT46主電動機の軽快な回転音を聞くことができます。

”中央線あたり”が収録されているアルバム”日付のないカレンダー

以上、今まで私が聞いた鉄道に関連のある音楽で印象に残っているものを紹介してみました。これらの音楽は歌詞やメロディを聴くだけで目の前に実際に鉄道風景が思い浮かびます。歌は鉄道に関する具体的な情景や想いを歌詞という短い言葉やメロディーに再構築することにより、実物を実際に見た時以上にそれを見た時の心情も含めたイメージを聞き手の中に構築します。一方鉄道模型で最密化により実物世界の再現を目指すことは、このような創作とはの対極にあるようにも感じます。その意味では実感的な模型を製作するためには模型を作るためには実物を観察する時の感性とそれを模型に落とし込む構想力も磨かなくてはならないのかもわかりません。なお、ここに挙げた楽曲は全て音楽配信サイトで視聴が可能ですのでよろしければ聞いてみてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。

デジタル制御で何ができる?(8):デジタル制御における運転の楽しみ方について −レイアウトセクションで撮影した動画とその撮影方法の紹介–

前回の記事では、デジタル制御を楽しむ第一歩として小規模なレイアウトセクション(ジオラマ)を製作し、そこにデジタル制御を導入しサウンドデコーダーを搭載した車両を導入して動画を撮影して楽しむのも「アリ」ではないかということを述べ、撮影した動画を紹介しましたが、今回、以前このブログで紹介したレイアウトセクション(ジオラマ)、『ALTENHOFのクリスマス』を走るサウンドデコーダー付き車両とともに紹介する動画を作成してみましたので、その動画をその撮影方法とともに紹介してみようと思います。
まずはその動画をご覧ください。

このレイアウトセクションを作成した当時は、このセクションで動画を撮影するという構想は全くなく、線路部分は車両の展示場所とするようなことを考えていました。そのため線路と市街地には大きな高低差がありますが、動画撮影を意識していたら、線路を高架線として、車両と街の表情が同時に撮影できるような構成にしたのではないかと思います。動画撮影を意識したセクションを制作する場合には、構想時に動画の絵コンテをイメージした構想が必要であるような気がします。
一方、この動画を作成するにあたりかなり迷ったことがあります。それはこの動画の車両の走行音にBGMを被せるかどうかということです(Youtubeにアップした上記の動画はBGM付きです)。勿論?実際にこのレイアウトセクション上を走行する車両を鑑賞する際にはBGMなどは全く必要性を感じないのですが、ある程度の長さの動画を作成して鑑賞してみるとBGMがあっても良いようにも感じます。考えてみると、通常、列車の走行音は「騒音」以外の何者でもありません。そのため実際に動く列車(模型)を眺めていない状況で、車両のみではなくレイアウトセクションの全容を紹介する動画ではBGMを入れるのもありかと考えてみたのですが皆様はどうお感じになりますでしょうか。
余談ですが、鉄道の映像と音楽について、今から50年以上前のSLブームの真っ只中にロードショーで封切られた高林陽一氏が演出・脚本・撮影を手がけた「すばらしい蒸気機関車」という映画(音楽は大林宣彦氏でした)では映像の一部に出てくる女性(機関車を愛する少女)と音楽(歌)の存在が議論となり、当時の『SLマニア』には非常に不評であったようです。当時はまだSNSなど全くない時代でしたのでこの映画を鑑賞したSLマニア以外の人々の評価は不明ですし。今思えばいくらSLブームとはいえ、映画館で封切られる商業的な映画では純粋な記録映画以外の要素も持たせた構成とすることはある意味必要であったような気もしますし、いくら蒸気機関車が人間のような機械であると言われても、「実際の人間」に関わるストーリー(視点)がないと、作品が非常に味気ない単なる記録映画になってしまうような気もします。
1985年にBarbra StreisandがBroadway Albumの中で歌った”Putting it together“(うまくやり遂げる)という歌の歌詞に多分映画制作を意識していると思われる歌詞、「芸術は生やさしいものではない」「構想は頭の中にある限り構想でしかない」「財政的支援を得るためにはそれなりの対応が必要」と言ったような歌詞が出てきます。Barbra Streisandはこの数年前にYentlという映画を制作(監督)していますが、この歌詞は彼女のその映画制作の体験から出てきた言葉のようにも感じます。高林陽一氏にもそのような葛藤はあったのかはよくわかりませんが・・・。私は多分蒸気機関車の牽引する営業列車に乗車したことのある最後に近い世代だと思われますが、現在各地で走っている蒸機牽引列車で当時の列車の雰囲気を味わうことはできません(これを否定しているわけではありません)。しかし、当時、各地で蒸気機関車が「普通に」活躍する風景を沿線の風景とともに35㎜フィルムで1時間以上にわたって記録した映画が制作され、それが現在でも他の映画作品と同様、DVDで入手でき鑑賞できるということことを考えれば、今となっては少女や歌の存在の是非などは些細なことのように感じます。

話をこの動画の撮影に戻しますと撮影はカメラ、三脚、ビデオ雲台を用いて行っています。それ以外の特に特別な機材は用いておりません。三脚は通常の三脚と小型の三脚の2種類を使用しています。カメラの横移動は三脚の下にタイルカーペットを置いてフローリングの上を滑らせて撮影しています。カメラの縦移動はビデオ雲台で行っております。横移動の際は三脚をタイルカーペットに押し付けながら三脚を移動しますので三脚は比較的頑丈なものが必要ですが、小型の三脚は脚が1枚のタイルカーペットに載るためカメラを移動させる際はタイルカーペットを移動させますのでそれほど頑丈な三脚でなくても大丈夫です。このようにこの程度の大きさのレイアウトセクションでしたら特別な機材を用意せずとも実物の鉄道を撮影するための機材で十分対応でき、カメラもコンパクトカメラやスマホで十分綺麗な映像が撮影が可能です。また、このような撮影では自動運転は不要ですので、簡易型のコントローラーでも十分対応可能です。デジタル制御に興味のある方はまずはこのようなことから始めてみても良いかと思います。

走行する列車の撮影はレイアウトセクションを床上に置いて小型三脚で撮影しました。カメラの移動はタイルカーペットを滑らせて行います。