手持ちの台車を利用して自作したペーパー車両(1)

165系”アルプス”と20系”あさかぜ”:今回製作する作品で目指すものとは

<はじめに>
これまでこのブログで紹介させていただいたペーパー製の電車はモハ54、70系電車等の所謂旧型国電と言われる電車と、711系、クモヤ791という新性能電車と言われる車両で、これらの車両はいずれも1両単位あるいは比較的短編成の電車でした。その製作を通じ、だいぶペーパー製車体の製作にも慣れてきましたので、手元にある台車等の部品を活用して比較的長編成の列車に挑戦することとしました。以下にその作品を紹介させていただきますが、今回は完成した車両の紹介に加え、私が今回車両を製作するにあたりどのような考えかたで製作に臨んだか(実際に工作の手を動かし始めるまでの構想と設計プロセス)についても今まで50年以上鉄道模型を趣味として車両を製作してきた時に感じてきた想いと共に記載させていただきたいと思います。これから何かペーパー車両を製作してみたいと思っている方の参考になれば幸いです。また、時々話が脱線してしまうかもわかりませんがお許しください。

<今の時代に車両を自作する意義について>
私が鉄道模型に興味を持ち、車両の自作を始めたのは約50年前ですが、当時少年向けに発行されていた”子供の科学”・”模型と工作”・”模型とラジオ”等の雑誌には鉄道模型の工作コーナーがあり、「〇〇の作り方」という記事が毎月掲載されていました。

また、大人(上級者?)向けの”鉄道模型趣味(TMS)”にも読者の作品の紹介記事だけでなく、編集部が執筆した車両の製作法の記事がよく掲載されていました。思うに、当時は実際に手を動かすかは別として現在よりも幅広い層が車両の製作に興味を抱いていた(実際に行っていた)のではないかと考えられます。その当時、Nゲージはまだ普及しておらずHO(16番 )ゲージの完成品は非常に高価でしたので比較的若年層のファンにそれらの完成品は簡単に手の届くものではなく、自分の好きな車両を手に入れるためには何らか自分の手を動かして車両を製作せざるをを得ないという事情もあったようにも思います。

一方、現在はHO(16番 )ゲージの真鍮製の完成品は相変わらず高価ですが、我々の年代には馴染みのあるJRに継承された旧国鉄の主要形式については比較的安価なプラスチック製の製品が多数発売され、その中間の価格帯にはサウンド付きのダイキャスト製品も発売されており、メーカーを横断的に見ると製品のProduct Lineの選択肢は増加しています。その一方でキット組み立ても含め車両を自作するモデラーが減少したせいか、所謂バラキットと称する部品の追加が前提の真鍮製車体キットは次第に数を減らしています。また比較的安価なプラスティック製の製品でもそれらは実物のイメージが的確に再現されており走行性も良好で、お座敷運転やレイアウト上で走らせるには特に問題はなく、そのため工作が好きな人を除き、わざわざ時間をかけて車両制作を行うモデラーの数は減少しているのかもわかりません。


 また、現在何らか手を動かして(工作をして)車両を手に入れようとすると、たとえ車体の材料費が数百円のペーパー車体であっても市販パーツを多数使用した場合、パーツ購入にかかる費用はプラ製品を購入する費用と同等あるいはそれ以上、車体キットを使用すれば確実にそれ以上の費用がかかります。もちろん工作の楽しさを味わうためにはある程度の費用が必要という考え方もありますが、工作のプロセスは楽しめてもその結果として生み出された作品が市販品に対してそれなりのレベルに達していなければ作品に対する満足感は得られません。今回製作しようとするペーパー車体の場合でも、長編成の車両になると車体の製作にはそれなりに工数もかかりますし、手作りで複数の同一形式の車両をばらつきなく製作することは意外と難しい工作です。今回のように市販されている車両を題材に選んだ場合には製作のモチベーションを維持するためにもはなぜその車両を(わざわざ)製作するのかという理由づけとともに完成した作品に対する市販品にはない価値(特徴)を求めたくなります。そこで製作を始めるにあたり、どのような形式を選定し、どのように設計を進めたら製作の大きな動機である工作の楽しさを味わうと同時に出来上がった作品に対してなんらかの価値(わざわざ作って良かったという満足感)が得られるかをを考えることから始めました。

<満足できる作品とは>
模型は一般的には実物に似せて作ったものとされ、Wikipediaには「何かを模倣し具象化したもの」とあります。我々は車両を製作するときまず実物の形式図等に記載されている寸法を1/80に縮小して各部の寸法を決めて制作を開始しますが、工作機械を使用しない自作品の各部の精度は精密金型を用いて量産する市販の製品の精度にはかないません。したがって作品に市販品にはない特徴を持たせ満足感を得るためには寸法の正しさ(完成した車両の角部の寸法の正確度と精密度)だけではない何かが必要になります。それは何かを考えていたある日、書店でエコーモデルのカタログを兼ねた「情熱が生んだ鉄道模型」という雑誌を見つけて購入ました。そしてその中で紹介されている作品を見た時、僭越ながらその中の記事で紹介されているすばらしい作品が「写真で見る限りぱっと見で雰囲気が私の作った作品と似ている」ということに気づきました。

それらの作品はもちろん詳細にみれば私が作成した車両などそれらの作品の足元にも及ばないことはすぐにわかります。しかしそれでも第一印象で「似ている」と思ってしまうのは、両者が同一の車体キットを用い、車体以外のパーツもほぼ同一のパーツを用いているからではないかと考えられます。このように市販のパーツや部品を利用して車両を「自作」しても、パーツやキットのレベルが上がっている現在、出来上がった作品は他の方々が作った作品と似た作品になってしまうことが考えられます。一方、私の手元には1963年に初版が発行された機芸出版社の「日本型蒸気機関車の製作」という本があります。(手元にあるのは1970発行の第4版です)。この本の中には今でもよく折に触れて語られる中尾豊氏が制作した6200型ネルソン, 7850型をはじめ白鳥剛氏のC56や坂本衞氏の9600等、殆どパーツのない時代に作製された素晴らしい蒸気機関車の作品の記事が掲載 されています。

また、この本の中には上記作品の他にも各氏が製作した個性豊かな作品が数多く掲載されていますがそれらの作品は市販パーツの乏しい中、細密化ばかりを追求せず走行性能を向上させる工夫や、いろいろな素材や技法で各部を実物の形状(雰囲気)に近づける製作法が記載されており、今読んでも興味深い記事ばかりです。そしてこのような工夫が個性的なモデルを生み出しているように感じます。このようなことから、自作品を見て満足するためにはその作品が「実感的」でありながら「個性的」であること(他の人が製作したものとは一味違うと感じられること)が必要なのではないかと感じました。

<自作車両に求められるものとは>
このようなことを考えていたとき思い出したのが50年近く前にTMS誌上に掲載された中尾豊氏が執筆した項題の「鉄道模型の造形的考察の一断面』という記事(1951年の記事の再掲)でした。この記事が掲載された当時は所謂SLブームの真っ只中で、今まで鉄道にあまり興味のなかった人々の間でも”SLの美しさ(機構美)”が語られるようになり、それでは模型でその美しさを再現する(実感的な模型を製作する)ためにはどうすれば良いかが課題となりました。また、ちょうどこの頃に高価ではあるものの蒸気機関車の細密化用のロストワックスパーツが各種入手可能となり、「実感」を求めてモデルの細密化が始まった時期でもありました。この記事は当時中学生の私には非常に難解でしたが私なりにそこで氏の言わんとしていること(問題提起していること)は細密なパーツを用いて実物を正確にスケールダウンした模型を製作しても我々はその模型を見て実物を見た時の感動(実物の機能美)を味わうことはできない。模型を見たときに実物を見た時と同じような感動(実感)を味わうためには模型を製作する際、単に実物の寸法を縮小して実物が備えているものの全てを再現しようとするだけでは不十分で、その作品に何か鑑賞者(自分)の実物車両に対するイメージに合致するものを表現し、それが鑑賞者(自分)がその実物を見たときの体験とシンクロすることにより初めて鑑賞者(自分)はその模型を見た時にそれが実感的だと思い感動する(作って良かったと思う)のではないかというモデルの細密化至上主義への問題提起ではないかと解釈しました。


一方、このブログでも紹介させていただきましたが、私は日本型の車両模型の政策の他にメルクリンデジタルシステムによる自動運転を前提としたレイアウト製作も行なっています。その中で感じたことは、レイアウトを製作し、その中で自分のイメージに沿って鉄道をとりまく世界を再現することは「ドラマ」の制作に似ているのではないかということです。

ドラマを「人間の日常生活をシリアスに描きながら、そこにに登場する人物や行動に作者の伝えたいメッセージを埋め込んで観客に伝えるもの」と考えると、その世界に登場する「人間」は日常暮らしている我々のような普通の「人間」とは異なり、その製作者が鑑賞者に伝えたいメッセージに従いその性格、行動がデフォルメされています。その「人間」が暮らす周囲の環境や人物の置かれた状況も同じです。それでも鑑賞者はその作品が製作者の意図に沿ってデフォルメされた架空の世界であるということを知りながら一時はそのことを忘れ、その世界に感情移入して感動し、時には後にその作品を見た鑑賞者の行動に影響を与えることすらあります。これを実現しているのがテーマに沿った架空の世界をあたかも現実のように見せる制作スタッフさんや役者さんたちですが、鉄道模型における架空の鉄道世界では役者さんを車両、役者さんを取り巻く環境をレイアウトに例えることが出来るのではないかと思います(制作スタッフは製作者です)。ドラマの中で役者さんにはどうしたら製作者がメッセージを伝えるために創造した「架空の世界」で「架空の人間」をあたかも「実際にいる人間」のように演じられるかという課題があります。そしてその課題を解決するためには「デフォルメされた架空の人間」を「実際にいる人間」にうまく溶け込ませてバランスよく表現する役者さんの能力(技術)と、それを引き出す演出家さんの能力が重要なのではないかと思います。鉄道模型という製作者が創造した「架空の縮小された鉄道世界」の車両も役者さんと同様、その縮小された架空の世界で実物のように「振舞う」ためにはその全てが実物の正確な縮小ではなくても鉄道世界を再現するための各部のバランスさえうまく取れていれば、架空の縮小された鉄道世界で実物の雰囲気は表現でき、それが作品の特徴(個性)となると共に作成者の満足や見た人の共感につながるのではないかと思います。鉄道模型工作というものは一般的にはエンジニアリングの世界に近いものですが、我々が鉄道模型の世界で良い作品(車両とその車両が活躍する舞台)を生み出すためには車両やレイアウトに製作は、映画や演劇における脚本家、役者、演出家さん等のようなクリエーター的なセンス(物事を創造する能力)も必要な気がします。ただし、映画や演劇の感動作が二流の脚本家や大根役者の演技から生まれないように、あくまでも車両やレイアウトのレベルを一定の水準以上に製作することはその大前提となります(ここを外すと単なる自己満足になってしまいます)。ちょうど50年前の1972年、TMS誌上にDACHES STORYという記事が連載され、賛否両論があったと記憶していますがこのプロジェクトもストーリーに基づく鉄道世界の構築の提案であったような気がします。この記事は軽便鉄道がテーマであり、国鉄や大手私鉄のモデルを製作するモデラーとの親和性はあまりありませんでしたが、たとえ製作の対象が幹線を走る長編成列車であってもバランスの取れた作品を生み出すためにはその車両に対する自分なりのイメージの構築が必要と思います。

<今回製作する作品の目指すもの(設計方針)>
いろいろ理屈っぽいことを記載してしまいましたが、上記のバランスをどのように実現するかということを考えた時、バラキット(車体キット)と市販パーツを使用て作品を製作する場合や完成品を加工する際には素材(ベース)に一定レベルの水準は確保できるため、自分の思う実感的な作品を製作するという課題の解決のために形状の修正やパーツの追加による細密化を行う事が方向性の一つとなると考えられます。一方、車体をペーパーで製作すると作品の根幹をなす車体部分の精度は完成品やキットに対してどうしても低下しますので、そのような車体で過度に細密化を狙い、市販のパーツに過度に頼理すぎると全体のバランスが崩れ、欠点が目立つ作品になってしまうのではないかと考えられます。したがって、今回のようなペーパー製車両の製作ではまず自分の工作力、工作法による制度の限界等から車体の細密度がどの程度になるか(際密度をどのレベルにするか)を想定し、それに応じて使用する市販のパーツの種類をコントロールして両者のバランスを取ることにより、ペーパー車体でも実物の雰囲気がうまく再現できるのではないかと考えられます。また、その中に自分のその車両に対するイメージをうまく表現できればさらに作品の満足度は上がるのではないかと思われます。そこで今回の製作にあたっては常に全体のバランスを考えてディテールを取捨選択し、「細密モデルではないが実物の雰囲気(誰もが抱くその車両に対するイメージ)がよく再現されたモデル」を目指すという結論に至りました。かねてよりロストワックスパーツを使用して特定番号の機関車を製作している時、この活動は果たしてクリエイティブな活動なのか?と疑問に感ずることもあったのですがいろいろ考えた結果、遅ればせながら70年前の中尾豊氏の言わんとしたことがここでやっと理解できた気もします。

というわけで次回は車種の選定の経緯とその車両に対するイメージの明確化についてご紹介させていただきたいと思います。